COLUMN コラム


―現役時代
 はじめまして。明光サッカースクールでヘッドコーチを務めている檜垣裕志です。スクールでは、草加、所沢、さいたまの各校で技術や意識の高い子供向けの特進クラスを担当しています。また、現場に立つこともそうですが、コーチの育成やマニュアルの作成も同時に行っています。

 自己紹介をすると、僕がサッカーを始めたのは17歳からで、それから7年後にはブラジルでプロになりました。カズさん以来の日本人プロ選手だそうです。実際には、最初の1年はGKとしてプレーしていましたから、フィールドに転向したのは18歳からでした。

 なぜ、そんなに始めるのが遅かったかと言えば、別にサッカーが好きではなかったからです。6歳のときから「スポーツのプロ選手になりたい。世界で活躍したい」と思っていました。だから、競技はなんでも良かったのです。小さい頃は、野球や剣道をしていましたし、中学のときにプレーしていたのはテニスでした。

 僕は高校に入るときに1年浪人していて、サッカーを始めようと思ったのもその頃です。入学先を決めるときも、石川県出身なのですが、強豪校に行くのではなく、高校選手権にも出た、若い先生がいるところに決めました。それが自分に合っていると思ったのです。

 入学する前から、卒業したらブラジルに行ってプロになるという意思は固めていました。当時はカズさんがブラジルで活躍していて、その影響が大きかったですね。

 高校へ入ると、サッカーのことだけを365日考えて練習に励みました。手を使う競技を経験していたのでGKを選んだのですが、身長が高くなかったのでポジションを変更しています。ただ、高校時代の自分は、たいした選手ではありませんでした。チームも公式戦で1回勝てれば良いかなという程度です。

 もちろん、自分でも高校からサッカーを始めて、プロになれるとは、ほとんど思っていませんでした。小さい子供がテレビを観て、仮面ライダーやヒーローになりたいと言うのと似たようなものです。それでも、そこに行くためになにをするのか。プロセスが一番大事だと思います。プロになるため、上手くなるための努力はしていましたし、チームの練習以外にも、自主トレをしていました。

 ブラジルには、予定通り高校を卒業してすぐに旅立ちます。今も雑誌などに載っている留学を斡旋する業者を使い、ポルトゲーザというチームに練習生として入りました。ただ、業者に払うお金、渡航費や生活費を合わせると、ブラジルの物価がいくら安いといっても、1年で200万円くらいかかります。当然のように親にも反対され、勘当するから手切れ金だと言って、その200万円を渡されました。

 ポルトゲーザに入ると、ブラジル人のテスト生もいっぱい来ていて、20歳以下のチームにいたのですが、完全に“お客さん”でしたね。お飾りのようなもので、練習にもほとんど参加させてもらえませんでしたし、紅白戦でも5分とか10分くらいしか出させてもらえませんでした。

 そして、なによりもチームのレベルが非常に高かったです。その年、ブラジルの高校選手権のような大会では予選から全勝で優勝していて、決勝ではグレミオに4-0で勝っています。レギュラーだけでなく、ベンチメンバー、ベンチに入れない選手までプロになるような凄いチームでした。
「プロにはなれない。どうやって日本に帰ろうか」。そう思いました。実は、高校3年生のときに、有名大学のセレクションを受けたこともあります。そのときは今の自分では無理でも、トレーニングを積めば追い越すこともできると感じました。でも、ポルトゲーザでは、実力差がどれくらいなのか見えないほど、圧倒的な差がありました。技術や判断力など、サッカーの試合に生かされる全てのものが違いましたね。

 それでも、チームの練習以外に自主トレもして、とにかく上手くなろうと努力しました。生活面では食事や環境面の辛さは感じません。あくまで、不安とかはサッカーのことだけです。他の人と比較をして考えることはありませんでしたが、プロになれるだけの技術を限られた時間の中で身に着けなければならない。そういう不安はありました。練習生の中には、同じように何人も日本人が来ていました。県選抜の選手や、全国大会の経験者もいましたが、ほとんどの選手が途中で挫折しています。

 結果的に、ブラジルへ行ってから4年目でプロ契約できることになるのですが、2年目以降は、留学期間も終わり転々としました。いろんなチームで練習参加させてもらったり、1人で自主トレをする日々です。
 
 プロ契約の話もいただけるようになりましたが、僕が目指していたのはポルトゲーザでプロになること。最初にトップレベルを体感していたので、やはりその中でプレーしたいという気持ちが強かったです。一度、プロ契約を他でしてしまうと、権利の問題なども出てきます。親も2年目以降は自分の気持ちが本気だと感じてくれたようで、生活費を援助してもらっていました。

 日々トレーニングを積んで準備はしていましたが、ブラジルの1部チームが、簡単にテストを受けさせてくれるはずもありません。チャンスが訪れたのが4年目でした。知り合った代理人のツテでテストを受けさせてくれることになり、合格することができたのです。

 実力だけで合格できるわけではないですが、ブラジルに来た当初とは違い、技術が上がってきたという自信、積み重ねてきたんだという想いはありました。テストの最中も、負けていないと思いましたし、準備もできていたと感じました。

 僕がプロになった93年にはJリーグも始まりました。Jリーガーが億単位のお金をもらっている頃、プロになった僕の月給は20万円くらいです。それでも、当時のブラジルのトップ選手が年収で2000万円くらいなので、物価から考えると悪くない金額です。ホテル暮らしができるくらいでした。

 ただ、ブラジルは給料の未払いとかがありますし、情報は少なかったですが、Jリーガーをうらやましく思うこともありました。ブラジルでも勝利給はあったのですが、契約書の段階では、勝利給を受け取るという箇所にサインしてはいけないことになっています。サインをすると、裁判になったときにその分もクラブが支払わなくてはいけないので、契約書の欄にはあるのですが、NOという箇所にサインさせられます。僕だけでなく、みんながそうだったんだと思いますよ。

 ポルトゲーザに入ってから、僕は移籍も経験しました。これはステップアップということではなく、結果が出せなかったのでクビになったのです。そうなると移籍先を探して、テストを受けるというのを繰り返しました。

 その間にJリーグからのオファーもいただきました。具体的に金額を提示されることもありましたし、「Jの方がお金も良いし、さっさと帰ろう」と心が揺らぐこともありました。リーグの開催時期が違って、タイミングが難しかったこともありますが、それでも、それを選択しなかったのは「ブラジルのトップでプレーしたい、活躍したい」という気持ちの方が強かったからです。結局、叶えることはできませんでしたが。

 引退を決めたのは30歳までにキリをつけようと思っていたからです。ポルトゲーザではゼ・ロベルト、ジュベントスではポンテなどともプレーし、切磋琢磨したのですが、ブラジルのトップでプレーもできず、W杯にも出れませんでしたし、代表にも選ばれませんでした。僕の中の代表というと、ブラジル代表のイメージの方が強いのですが、そこで、引退して帰国することを決めました。ただ、多くの素晴らしい選手とプレーしたことは、コーチとしても、選手としても重要な経験になっています。

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